防人たちが活躍した時代の九州の道
白村江の戦いののち、新羅に進駐していた唐の使者が来朝してきました。
兵士ではなく使者ですから、来朝の目的は外交にあったはずですが、当時の朝廷の目には不気味に映ったに違いないでしょう。
そのため防人たちが配置された前線基地の役割は、一層大きなものとなっていきました。
ところで、当時の九州は、どのように治められていたのでしょうか。
ここでは大宰府を中心とした当時の交通路をみてみましょう。
5世紀ごろまでの九州は「つくし」という言葉で表現され、その範囲は狭義では九州北部、広義では九州全体をさしたといわれています。
このように古代の日本では、九州でも、狭義の「つくし」である九州北部が重要視されていました。
この狭義の「つくし」には、現在の福岡県ばかりでなく、佐賀県や長崎県の一部も含まれていました。
九州に現在の県制度のもととなった国制が確立されたのは、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・壱岐・対馬の7国2島が置かれた701年のこと。
このとき九州全体を、中央の畿内に対して西海道としました。
さらに変遷を経て、前記の7国に薩摩、多ねを加え、さらに713年には日向から分離した大隅を加えて9国3島とし、824年に多徽を大隅に編入して、9国2島の九州が確立しました。